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舞台照明とポストドラマ演劇とアップルパイとクィア障害学

祖父が死去しました。一人のガラス職人について。

祖父が死去しました。このあいだ。3月の下旬。死因は知りません。ただ、苦しむことはなかったとだけ聞きました。
私は祖父とあまり話したことがありません。17年間同じ敷地内の家に住んで、幼いころはよく祖父母の家で面倒を見てもらっていたのに。
私が物心ついたころ、祖父はすでに耳が遠く、ぼけも始まっていました。だから、私は祖父としっかりとした会話を交わした記憶がありません。ずっと一緒にいたのに。印象に残っているのは、幼いころに祖父母の家で突然怒鳴られたときの大きな声と、高校生の時に祖父が錆びついたレンチと持ち手が木でできたドライバーをくれたことです。息子の長男である(性自認はともかく、少なくとも祖父はそう認識していたでしょう)私に工具を手渡すことは職人である祖父にとって意味のあることだったのではないかと思います。
祖父はガラス職人でした。溶かしたガラスからコップやお皿を作るような、そういう職人ではありません。ガラスを切ったり磨いたりする職人だったようです。祖父は小さな会社を作りました。初めのころは時計に嵌めるガラスを作っていたようです。父が後を継いで、今は車や建物の窓ガラスの施工が中心になっています。
祖父は朝鮮半島で育ちました。今の中国と北朝鮮の国境近くの北朝鮮側だそうです。祖父母の家で餃子を食べるとき、祖父が食べているのはいつも水餃子でした。それがその地域での食べ方だったようです。両親は会津出身の日本人で、祖父はファノンのいうところのコロンの子どもでした。家は裕福な材木商で、人力車に乗って学校に通ったそうです。昭和6年生まれで、終戦時にはおそらく15歳。そこから家族とともに日本に渡り、両親の地元である会津で高校に通ったそうです。卒業後に東京へ。日本橋の会社で修行をしたそうです。
そして60年代の前半に独立して茨城へ。幹線道路沿いに店を建てます。祖父母はどちらも会津にルーツのある人で、茨城には縁もゆかりもありませんでした。そのため、祖父母は地域社会になじむためにいろいろな努力をしたようです。私が生まれた頃には、祖父母は近所の人と旅行に行ったりもしていたし、祖父の葬儀にも多くの方が参列してくれました。しかし、その裏にはさまざまな困難があったようです。祖父母は余所者でした。
息子が生まれ、店は順調でした。同業者の組合にも所属し、支店も1つ出しました。私の知る限り、祖父母の後半生は平穏そのものでした。00年代の終わりごろに、それまで息子の家族(つまり私たち)が住んでいた敷地の奥にある小さな家に引っ越し、2011年の地震のあとに祖母が死去しました。それからは祖父も急に体が弱り、老人ホームに入ることになりました。そして先週、亡くなりました。
これが私の知っている限りの祖父の(そして途中からは祖父母の)人生です。もちろん、祖父は私の知らないいろいろな経験をしてきたのでしょう。祖父は戦争中のことはほとんど語らなかったそうです。でも、孫として知る限りのことを書き残すこと、植民地で育ち、高度経済成長期の日本を生きた一人の職人の面影を書き残すことは私なりの供養です。祖父が老人ホームに入ってからは私はなかなか会いに行くこともできず、祖父のケアに携わることができませんでした(あるいは、しませんでした)。その後悔もあります。
祖父は、朝鮮半島の植民地支配という近代日本史の暗部と、高度成長という右肩上がりの時代、そして歳を取ってからの低成長期という激動の86年を生きました。祖父はそういった時代の中で生きた人であり、その立場をナイーブにすべて肯定することはできません。しかし孫として、祖父が自分の人生に満足していたことは願わずにはいられません。